キーワードエッセイ

観光

観光

長谷川 浩己

アフリカで生まれた人類がベーリング海峡を越え、アメリカ大陸を南下してはるばるパタゴニアまでたどり着いたのは、単に追われたり、食糧を探したりしただけではないと思う。知らない場所へ行ってみたい、未知の体験をしてみたいという好奇心は、人類誕生からDNAに刻み込まれているかのようである。その衝動こそが、地球上にあまねく広がったわたしたちが、いまも「観光」を続ける大きな駆動力になっているのではないだろうか。もちろん観光は平和な時代の象徴であり、強制的に追い出われる難民とは異なる。行き先は自由だ。

その好奇心を糧にビジネスが生まれ、「観光地」が登場した。観光地とは、意図的につくられたものであれ、偶然の産物であれ、「行ってみたい!」と思わせる衝動の対象である。いまは情報が溢れすぎて、あらかじめ仕入れた知識の再確認になってしまう「観光」も増えている気がするけれど。それはさておき、現在は空前の観光ブームである。観光は地方の存続にかかわるキーワードであり、都市間競争の目玉戦略にもなっている。

ここで一度、頭を冷やして考えたい。ランドスケープアーキテクトとしてこの状況にどう向き合えばいいのだろうか? そもそも観光が未知との遭遇である限り、わたしたちにできることは、「そこ」にしかない風景、「そこ」でしか立ち現れない風景が生まれる手助けをすることではないかと思う。そういう場所こそが、他者にとっての「未知」になる。

テクノロジーの発達とモダニズム的思考が世界の均質化を促進したことは否めない。その結果、いまは誰もが自分たちのかつての「顔」を探しているが、何がアイデンティティだったかを忘れてしまっているのかもしれない。駅前はどこに行っても同じようで、国道沿いの風景も一瞬どこにいるのかわからなくなるほどだ。観光地は有名になるほどもとの地形を壊して大きな駐車場が整備されていき、湖面にはなぜかスワンボートが浮かぶ。

過剰なデザインや借り物ではなく、その土地に「あるべきように生まれてくる」風景を、もう一度、土地の声を聴きながら探してみたい。風景とは表層ではなく、全体像である。土地の成り立ち、歴史、文化、生業──さまざまなものが集積して立ち現れてくる。見た目だけではなく、いま、観光において「体験」が重視されているのは、誰もが本当の風景を求めているからだと思う。未知は隣のまちにも、地球の裏側にもある。人の顔が全部異なるように、場所の顔も全部異なる。すべての場所が観光地になりうるのだ。

物が行き交うグローバリズムは行き過ぎた面もあるが、お互いの体験を共有するグローバリズムは、これからの世界にとても大切な考え方になるだろう。固有の風景には匂いや味も、音も、出会いも、すべてが存在している。お互いに興味をもち、実際にそこに足を運び、体験する。そうした積み重ねは、多様な風景があるからこそ、この世界は豊かなのだということを実感させてくれる。そのために観光は存在する。

2025年10月31日