キーワードエッセイ

遊び場
わたしは現在、小学生と保育園児の2児の子育て中であり、ごく最近まで都心近くの比較的こどもの多い住宅街に住んでいた。
こどもたちの遊び方は、近年本当に多様化している。それぞれ好きな道具を使い、思い思いに遊んでいる。これは遊び道具が多様になったことに起因するだろう。乗り物ひとつをとっても年齢別に細分化され、ボールなどの投げ道具も一見どう使うの? と戸惑うものがある。首都圏の広くはない公園では、こどもたちなりにスペースを棲み分け、おのおのが全力で遊んでいる。立ち話をする母親たちの間をキックボードがすり抜け、キャッチボールの下を鬼ごっこの鬼が走り抜け、よちよち歩きのこどもの股下をラジコンカーが通り抜けるといった具合に。
また、こどもに同伴する親の数は確実に増えている。これは安全に対する意識の変化が大きな要因だろうが、小学校中学年ぐらいまでは親と一緒にいる姿をよく見かける。そのため、こども同士の喧嘩が大事に至らない。ある意味ではこども社会を壊しているとも思うが、一方で大人と自然に話せるこどもが増え、よい近隣関係につながっているようにも感じる。特にコロナ禍以降は在宅ワークが広がり、平日の夕方には公園に父親の姿が目立つようになった。多くの父親は遊びに全力で参加する(というより、こどもに誘われる)。しかし、実は大人が本気で遊ぶのは危険をはらむ。視界に入らないこどもを吹っ飛ばしてしまうなど、こども同士でうまく使っていた空間のバランスが崩すこともあるため、注意が必要だ。こどもたちの遊ぶ姿を観察していると、互いに工夫しながら新しい遊びを生み出していることがよくわかる。遊びは本来自発的なものであり、こどもたちが自ら進化させていく無限の可能性をもつ。
さて、我々ランドスケープアーキテクトに求められるのは、その創造性を刺激しつつも、受け皿となる場所をどうつくるかである。親としても、なるべくのびのびと遊ばせたい一方で、当然、取り返しのつかない怪我はしてほしくない。そう考えると、首都圏の公共空間には「何もない場所」が足りないように思う。もし環境が許すなら、傾斜がゆるやかな、すり鉢状の大きな芝生広場をつくりたい。親の目が届きやすく、道路に飛び出す心配もない。転がるボールは途中で止まり、地面が柔らかいため大きな怪我につながりにくいだろう。また、広く均質的な空間は多様な遊びを受け入れると同時に、自然に人口密度を分散させる。季節の変化も遊びを豊かにし、メリットをあげればきりがない。
もちろん、地域やエリアの構成年齢層などによって求められる遊び場の環境は異なる。こどもだけでなく、どんな世代にとっても心地よい公共空間とはなにか、よく考えなければならない。大切なのは、全国一律の公園整備ではなく、周辺環境を含めた調査・観察を行い、その地域にふさわしいこどもを受け入れる環境を検討することである。











