キーワードエッセイ

持続可能性
この言葉には主語がない。当てはめるとすれば「わたしたちの生活の」または「わたしたちの生存の」だろうし、間違ってもそれは「環境の」とか「地球の」ではないはずである。なぜかこの辺りのことが気になるのかというと、近年、頻繁に耳にする「地球にやさしい……」もしくは「エコフレンドリーな……」などのキャッチフレーズの延長線上で使われている気がするからだ。こうした言葉を聞くたびに、多くの人が勘違いをしているのではないだろうか、といつも思ってしまう(それとも意図的に?)。「持続可能性」という言葉もまたしかり。主語をすり替えて、あたかも自分はいいことをしているかのようにふるまうのはそろそろ止めにしたい。
「持続可能性」が喫緊の課題であるのは、まさにそれにわたしたち人類の将来がかかっているから。いまのままでの生活や技術の利用では、この先わたしたちが生き延びられるのかという切実な問題が眼前にあるからである。地球は、巨大隕石でも衝突しない限り持続していくし、人類がいない環境だって、いく通りものパターンがあるだろう。むしろ人類抜きの生態系の方が、よほど安定していて持続させやすいだろうなとさえ思ってしまう。
エコロジーという学問も、地球温暖化対策も、マイクロプラスティックや環境ホルモンなどの話も、すべてわたしたち人間がこの先も安定的に生きていけるのかという問題に対しての活動である。極論を言えば、地球上が放射能で覆われても、農薬まみれになったとしても、それでいまの人類が滅亡したとしても、そこには新しい生態系が生まれるだろう。人類抜きで。わたしたちはそれをきちんと認めるべきだと思う。
地球のため、という「上から目線」を反省し、もっと謙虚にふるまいたい。この言葉は、わたしたちがこの先もこの地球上にいさせてもらうため、わたしたちの生活を「持続」させてもらうために必要なのだと思っている。











