Project Report



岩手県のほぼ中央に位置する紫波町は、奥羽山脈と北上高地の間にあり、まちの中央を流れる北上川によって肥沃な土壌に恵まれ、農業や果樹栽培が盛んな地域である。2007年からはじまった公民連携(Public Private Partnership/PPP)の取り組みによって、人口3.2万人のまちに、年間100万人以上が訪れるようになった。
オンサイト計画設計事務所は、このエリアのシンボルとなる『紫波町オガール広場』(以下、オガール広場)のランドスケープデザインを手がけた。公民連携の成功事例として知られるオガールプロジェクトにおいて、どのようにランドスケープがデザインされていったのか? プロジェクトにかかわったキーパーソンたちとともに、その歩みを振り返る。

盛岡駅から電車で約20分、まちの玄関口となる紫波中央駅を出ると、『オガール広場』の緑が目に飛び込んでくる。こどもが芝生を駆け回り、屋外スタジオではお昼を食べたり、本を読んだりする人の姿があり、そのなかを気持ちのよい風が吹き抜けていく。幅約30m、長さ約350mの細長い広場の両側には、図書館や子育て応援センター、飲食店がある官民複合施設「オガールプラザ」や、宿泊施設などを備えた民間複合施設「オガールベース」、分譲住宅地「オガールタウン」、町役場、木質バイオマスボイラーを使用した「エネルギーステーション」、保育園など、暮らしに必要な機能が集約されている。







「オガール」とは、 「成長」を意味する紫波の方言「おがる」と、「駅」を意味するフランス語「Gare(ガール)」を組み合わせた造語。この場所を基点に紫波町が持続的に成長していきますように、という願いを込めて名づけられた。
その名の通り、オガールプロジェクトによって276人の雇用が生まれ(※1)、周辺では宅地化が進み、近隣の定住人口も620人を超えた(※2)。地価も13年連続で上昇を続けている。さらに紫波町図書館は「Library of the Year 2016」を受賞。オリンピックで正式採用されている床材を使った、日本初のバレーボール専用体育館「オガールアリーナ」は、国内外のプロチームから合宿先として選ばれている。こうした状況が生まれるとは、プロジェクト開始前には、誰も予想していなかった。
※1:施設が完成した2017年と、入居しているテナントの変更があった2019年を比較した数(2019年紫波町調べ)
※2:オガールプロジェクト始動時の2007年と比較した増加数(2020年紫波町調べ)
オガールプロジェクトは、紫波中央駅前都市整備事業としてスタートした。駅前には、1998年に28.5億円かけて購入した10.7haの未利用公有地があったが、財政難によってそのまま10年間も塩漬けにされていた。東京ドーム2個分に相当するだだっ広い草原は、まちの人たちに「日本一高い雪捨て場」と揶揄(やゆ)されていたという。この土地を活用すること、耐震補強がされていない町役場を建て替えること、そして、市民からの要望が多い図書館の新設が行政課題としてあった。

この状況が大きく動き出したのは、当時の町長・藤原孝(ふじわら・たかし)さんとオガールプロジェクトのキーマン・岡崎正信(おかざき・まさのぶ)さんとの出会いにあった。2002年、岡崎さんは、岡崎建設株式会社の跡を継いでUターンしたばかり。全国で再開発事業の現場を見てきた経験から、自治体の収入が増えないこれからの時代には、行政が主導するまちづくりには限界があると、事業の計画段階から民間とパートナーシップを組む「公民連携」を町長に提案した。そして、本格的に公民連携について学ぶために、2006年に東洋大学大学院経済研究科の公民連携専攻(社会人大学院)に入学。「ここでの1年半の学びによって、まちづくりの価値観が大きく変わった」と語る。

これまでの公共事業は補助金に依存し、将来発生するランニングコストや稼働率を十分に想定せず、大型のハコモノを建設して、結局立ち行かなくなるといった杜撰(ずさん)な計画も少なくなかった。そこでオガールプロジェクトでは、公民連携の手法を取り入れ、官民一体となって第3セクターである「オガール紫波株式会社」を設立。行政と民間の間に立つ「エージェント(代理人)」のような役割を担い、岡崎さんが事業部長を務めた。
まずは、補助金以外の資金調達に奔走した。東北銀行から融資を受けるには、厳しい審査をクリアする必要がある。そこで着工前にテナントを固め、見込み収入を算出した上で、建築費と維持管理費を逆算。完成後は紫波町が公共施設部分を買い取り、さらにテナントから得る家賃や共益費の一部、固定資産税などを公共施設の維持管理費にあてることで、自動的に「稼げる」持続可能な仕組みを実現した。図書館の天井がスケルトン構造になっているのは、建築費を予算内ぎりぎりまで削った名残だという。
岡崎さんがランドスケープデザインを意識するようになったのは、公民連携の先進国であるアメリカの事例を大学院で学んだことがきっかけだった。
「日本の都市再生事業では、“敷地”のなかにいいものをつくろうとするけれど、アメリカではその“エリア”をどう価値づけしていくかを大事にしています。そのときに重要なのが“ランドスケープ”です。その次に、“サウンドスケープ”と“スメルスケープ”。この3つは、目と耳と鼻を通して本人の意思にかかわらず入ってくる情報だから、これをないがしろにしてはいけない。つまり、見た目だけよくてもいい空間だとは言えないわけです。でも、じゃあ、どんなランドスケープがいいのかというのは、講義では教えてくれなかった。それは、その地域ごとによさが異なるからと」(岡崎)
岡崎さんは、紫波町らしいランドスケープデザインとは何か? を考えるために、大学院で出会った恩師、都市・建築再生プロデューサーの清水義次(しみず・よしつぐ)さんをプロジェクトに誘った。清水さんにはよく「人間中心のまちづくりをやれ」と言われたという。
「道路をつくったり、商店街が復活したりすれば、まち全体が再生するわけではないんですよね。そこに住んでいる人たちが、“ここに住んでいてよかった”と思えるようなまちをつくらなければならない。つまり、人間中心のまちづくりというのは、“紫波らしいライフスタイル”を提案する、ということだと考えるようになりました」(岡崎)
2007年、半年遅れで、紫波町役場の鎌田千市(かまだ・せんいち)さんも東洋大学院に入学した。当時公民連携室の主任だった鎌田さんは、縦割りの役場のなかに横串を刺し、行政の内側から公民連携を進める役割である。ふたりは「ニューアーバニズム」という、歩いて暮らせるコンパクトシティを目指すまちづくりなどについて学んだ。

同年、岡崎さんと鎌田さんたちは視察でアメリカへ。ウォルト・ディズニーが未来の理想的な都市を目指してつくった、フロリダ州オーランド市の南西に位置するセレブレーションという地域に向かった。
「ここでやっとまちをつくるイメージが湧いて、なんで自分はこんなに小さなことで悩んでたんだろう、と思いましたね。まちの中心に池があって、その周りには遊歩道やカフェがあって、飲食店や映画館、タウンセンターがあって……公共施設と民間施設、住まい、自然とがすべてシームレスにつながっていて、歩いて楽しめる公共空間が生まれていた。ランドスケープって大事だなと思ったんです」(鎌田)
こうして理論と現場を行き来しながら学んだ海外のイメージを、どのように紫波で具現化するか。その手法として岡崎さんが発案したのが、第一線で活躍する専門家による「紫波町オガール・デザイン会議」(以下、デザイン会議)である。「アメリカの公民連携には、必ずデザイン会議があります。“デザイン”というと見た目を整えるイメージがありますが、そうではなくて、仕組みや座組みを設計する戦略会議のような位置づけ。専門家が集まって領域横断的に議論し、事業の決定権をもつ組織が必要だと考えました」と岡崎さんは語る。単年度主義の行政と長期プロジェクトを行うには、専門性のある外部組織が必要だった。
デザイン会議の委員長に清水さんを迎え、清水さんを通して声をかけたのが、建築家の松永安光(まつなが・やすみつ)さん(近代建築研究所)とアートディレクターの佐藤直樹(さとう・なおき)さん(アジール)、そして、ランドスケープデザイナーの長谷川浩己(はせがわ・ひろき)(オンサイト計画設計事務所)である。あとから建築家の竹内昌義(たけうち・まさよし)さん(みかんぐみ)も加わり、この5名の委員を中心に、岡崎さんと鎌田さん、投資銀行家の山口正洋(やまぐち・まさひろ)さん、測量調査会社の技術者、紫波町役場の担当職員が参加し、民間感覚による都市整備を進めるためのプロデュースやビジョンを検討する役割を担った。2009年に議決された公民連携基本計画では、「身の丈に合わない華美な商業開発はしない」という思いを込めて、「都市と農村の暮らしを愉しみ、環境や景観に配慮したまちづくり」を開発理念とした。
デザイン会議では、オガールの「敷地」だけではなく、駅の反対側に広がる市街地とつながった「エリア」全体の価値を高めるため、また、その価値を世代を超えて維持するために、「オガール地区 デザインガイドライン」を作成した。アメリカだけでなく、そのあとに視察した北欧でも、美しいまちには決まってデザインガイドラインが設けられており、屋根やファサードなど景観を構成するすべての配色や素材選定のルール、ベンチやアーケイドの設置などが決められていたからである。
「デザイン会議では、建築やランドスケープだけでなく、あらゆることを共有し、みっちり議論しましたね。それぞれが専門性をもちながらも、垣根なく意見を交わして、その場でものごとが決まっていった。ランドスケープデザインが“飾り”ではなく、事業計画と連動しながら構想できたのは、この仕組みのお陰だと思います」(長谷川)
デザイン会議は3か月に一度程度、東京で行われた。「公民連携」の前に「官官連携」が必要ではないかという役場側のアイデアで、紫波から東京までハイエース1台に乗り合わせて通ったという。往復14時間。その間に、役場のメンバーは互いの人となりや背景を知り、学び合いながらひとつのチームになっていった。
2009年にはじまったデザイン会議は、まず「一番高いところからまちを眺める」ために城山公園の小高い丘に登り、敷地を歩き、産地直販所に行くなどして地域資源を知るところからはじまった。

「初回の打ち合わせでは、まずそれぞれがまちづくりにおいて大事にしていることを語り合いました。わたしはみなさんの発言を紙に記録しながら話を聞いていたのですが、このとき長谷川さんは、“風景をつくる” ということを語っていました。それが住む人の生活を豊かにし、誇りにつながっていく資産だと。紫波らしい農村風景と都市的な暮らしやすさをどのように結びつけるか、という話をしてくれたことを覚えています。いま振り返ると、このときに話したことが、いまのオガールに全部入っていますね」(鎌田)
ひらかれた行政として、ものの消費から時間の消費へ。つまり、地域にすでにある資産を活用して、その場で時間を過ごすこと自体が人を集める装置になっていくことを目指す。生業と暮らしを両立させ、紫波ならではの風景をつくるために、「広場」を中心に事業計画を進めていくことになった。

「建築家やランドスケープデザイナーは“つくるプロ”ですよね。わたしたち行政は“仕組みをつくるプロ”。じゃあ、“使うプロ”は誰だ? と言ったら、市民のみなさんです。オガール広場は、国土交通省の補助事業を活用して、市民のみなさんとワークショップをしながら一緒に進めて行くことにしました」(鎌田)。
市民ワークショップの参加者を公募したところ、なんと申し込みは2名。そこで鎌田さんはコーディネーターの宮崎道名(みやざき・みちな)さん(カントリー・ラボ)と一緒に、多様な属性からなる「まちの100人リスト」をつくり、「あなたのやりたいことを実現するから、力を貸してほしい」と一人ひとり口説いて回って50名の参加者を集めたという。そうやって参加者のやりたいことを聞き出し、それを集類し、福祉・子育て・観光・ビジネス/農業・コミュニティという5分野に分かれた。
ワークショップは全8回。このプロセスによって、使い手の行動欲求を聞くことができたという。町内にある9つの産直を代表する「紫波マルシェ」、広場に設けられた「パーソナルゾーン」、図書館の隣にある「もっきり屋」(北海道や東北の方言で立ち飲み屋の意)などは、ワークショップでの声がかたちになっている。
ユニークなのは、専門家によるデザイン会議と市民によるワークショップが、それぞれ別々に開催されたことである。専門家と市民が、共通言語がない状態で話し合いの場をもつと、専門家が市民の要望に合わせてしまうということが起きやすい。それではせっかく専門家を集めた意味がない。でも、市民は自分たちが話し合ってきたことをどのようにプロがかたちにするかを知りたいし、専門家は実際にこの場所で暮らす市民の声を聞きたいと思っている。そこで、市民と専門家が出会うデザインワークショップを2回開催した。
「ハード面だけでできることってそんなに多くですよね。足りないソフト面は、まちの人たち自身につくってもらわないといけない。そこでワークショップでは、 “ここに何があるといいですか?”ではなく、“ここで何をしたいですか?”という問いかけをしました。そうすると“木陰で本を読みたい”とか、“朝市をしたい” といった声がたくさん出てきて、それを次の回でオンサイトさんが、“全部の願いは叶えられないけれど、みなさんの意見を取り入れてプランを考えました。こんなかたちではどうでしょう?”とコンセプトとデザイン案を提案してくれたんです。まちにプレゼントをもらうような感じでしたね」(岡崎)
ワークショップを通して、まちの人たちとは「何をしてくれるの?」というお客さんのような距離感から、一緒にやっていく仲間のような関係性になれたという。このセッションを通してそれぞれの場で考えてきた「オガールらしさ」が交わり、計画に落とし込まれていった。
オガール広場のランドスケープデザインは、これまでの話し合いを経て、「都市と農村の新しい結びつき」「建物と広場の密接な関係」「紫波町ならではの風土への対応」を前提に計画することになった。敷地だけでなく「エリア」全体を活性化させるには、西側に広がる農村風景を引き込み、紫波ならではの資源をいかして東側にある市街地にも人の流れを波及させようという考え方である。

冬、日本列島が西高東低の気圧配置に覆われると、太平洋側にある紫波町は乾燥した晴れの日が増え、北西の冷たい風が吹きつける。農家が一軒一軒離れて点在する散居村地域では、その季節風から家屋敷を守る壁のような「えぐね」と呼ばれる防風林があり、紫波で暮らす人たちにとっては原風景のひとつである。
広場は、誰もが使える場であると同時に、まちの顔にもなる場所である。これらを両立させるために生まれたのが、「まちのえぐね」と名づけられた木立と、適度な大きさの芝生広場が交互に配置されたパッチワークのようなパターンであった。まちのえぐねのなかには、たくさんの小道が「あやとり」のように張りめぐらされ、自由に行き来できるようになっている。木立のなか、この「あやとりみち」を歩いていくと、ステージやバーベキューテラス、花壇、芝生など、それぞれの居場所に偶然出合ってしまう。



広場は、大きな中庭でもある。隣接する施設同士をつなげて利用しやすい環境をつくると同時に、施設内ではできない活動の受け皿にもなっている。たとえば、「屋外スタジオ」と呼ばれる東屋は、雨や冬の季節風を防いで屋外で過ごす拠りどころ。マルシェで買ったごはんを食べたり、自然を感じながら打ち合わせや楽器の練習をしたりすることができる。各施設の活動が広場に滲み出るようなイメージ。施設や広場が「単体」で存在するのではなく、お互いがゆるやかに依存しながらひとつのエリアがかたちづくられている。
細川恵子(ほそかわ・けいこ)さんは紫波町に暮らして38年、特定非営利活動法人紫波さぷりの代表で、重度の障害のある親子を支援する「オレンジの会」に立ち上げ当初からかかわっている。自分の子育てが落ち着いたころ、何かできることはないかと考え、重度の障害のあるこどもがいる友人家族の存在を思い出したという。オガールを誰もが来られる場所にするのが自分の役目だと思い、市民ワークショップに参加。「紫波町役場のトイレにはちゃんとベッドがあって、車椅子や障害のある人にとっても使いやすいユニバーサルデザインになっているのが、ちょっとした自慢なんです」と教えてくれた。
「毎年10月に、重度の障害のある親子が集まって、オガール広場で芋煮会をやっています。ここにはマルシェがあるから、具材はその場で買って、鍋だけもってくればできちゃうんですよね。道も平らで車椅子で移動しやすいから、こどもが飽きて騒ぎ出してしまったとしても、広場をぐるっと回ってまた戻ってきたりすることもできます。それに、図書館や情報交流館があるから、たまたま通りがかった人が覗いてくれたりして、思いがけない出会いがあったりするんですよ。どんなに重い障害があっても健やかで豊かな生活を送れるように、と思って活動しているのですが、やっぱり当事者がまちに出ていかないと互いに出会う機会がないし、理解も深まらないですよね。オガール広場での芋煮会は、わたしたちの存在を知ってもらういい機会にもなっているなと思っています」(細川)

あやとりみちによって区切られた性質の異なる空間は、その空間だけのパーソナルな感じがありながらも、閉じられていないため、近くの空間にいる他者の存在をうっすらと感じることができる。たとえば、親子が別々の場所で別々のことをしながらも、互いの視野に入った状態が生まれるから安心だ。直接言葉を交わさなくても、何かをやっている場面に出くわして、それがきっかけでまた別の何かがはじまったりすることもあるだろう。長谷川は、こうした「人と自然、人と人との関係性をつくることがランドスケープデザイン」であり、「一緒に何かをするだけがコミュニティではない」と語る。
「ここに来る人たちは、室内で過ごそうとか屋外で過ごそうということをあらかじめ決めて来るわけではないですよね。オガールというエリアに魅力を感じて足を運んで、そのときやりたいことをやりたい場所でやるために自由に移動し、そのときどきのお気に入りの場所を見つける。日常からお祭りごとまで、その使われ方によって姿を変え、誰かといることもできるし、一人でいることもできる、多様な居場所が同時に存在するデザインを考えました」(長谷川)
さらに、駅から最も遠いスペースには、背後の山並みと連動するアースワークが配置され、ランドマークとなると同時に大きなイベントなどに使われることを想定して、椅子や舞台など多目的に使うことができる傾斜面がつくられた。オガール広場からは山々や田園風景がよく見え、自分が立っているこの場所もその一部となっていることが感じられる。
「オンサイトさんは、スケールを変えたりしながら、数え切れないほど模型をつくって、可視化してくれるんですよ。その模型を囲みながら、みんなで話す。長谷川さんの真似をして、目線を下げて覗き込んでみたりして、模型の見方というものを学びましたね。鳥瞰的に上から眺めるだけじゃなくて、使う人の目線で見て、実感を得ていきました」(岡崎)

事業開始当初は、紫波町議会では「緑地管理は大変だから、芝生広場ではなく駐車場にしたらいいのではないか」という意見が多数だった。現在の歩いて回れるかたちではなく、広場の両側を車が通れるようにする大通公園のようなプランが検討されていた時期もあった。市民ワークショップの声を手がかりに、デザイン会議で議論を重ねながら、ヒューマンスケールのあるべき姿を模索した結果、いまのかたちがある。
平日のオガール広場に行くと、時間帯ごとにさまざまな人がのんびりと時間を過ごしている。朝はマルシェで買い物をしたお年寄りがベンチで一息つき、保育園のこどもたちがよちよちと散歩をする。お昼はオガールで働いている人たちがランチを食べたり、食後のコーヒーを飲んだりしている。午後になるとランドセルを背負った小学生がサッカーをはじめ、夕暮れどきにはあちこちで犬の散歩がはじまる。細川さんは、「一人でふらっと行って、座ってみようと思えるところってなかなかないですよね」と言いながらも、オガール広場はそう思える数少ない場所だと語る。
休日は、バーベキューが大人気である。広場の年間の利用件数は100件(2024年)。大勢の人で賑わう「ビアフェスト」のような大型イベントが開催されたり、結婚式が行われたりしたこともあるそうだ。長谷川は、オガール広場がオープンしてからまちの人に「まちなかにこんなにたくさんの人がいるのを久しぶりに見た」と言われたのがうれしかったという。車社会の地方において、まちなかに人がいる、出会うというのはなかなか見られない風景なのである。
「オガール広場ができて、5〜6年後に、地元のタウン誌で“高校生が行きたいデートスポット”ランキングで1位になったんですよ。昔は、紫波には何もないから盛岡に行くのが当たり前だったのに。いまでは、高校生がちょっと背伸びして、ここに来る。いやあ、うれしかったですねえ。お金を必要とせず、何も用事がないのに行ってみようと思うというのは、まさに公共空間ですよね。紫波らしいライフスタイル自体が集客装置になっている証だと思います」(岡崎)

いまでは公民連携の第一人者として、全国から引っ張りだこの岡崎さんは、これからは「教育・健康・福祉・食を充実させていきたい」と語る。そのひとつとして、2024年に「ノウルプロジェクト」がスタートした。ノウルプロジェクトとは、廃校になった旧紫波町立長岡小学校を「食と農」の拠点にする公民連携プロジェクトである。校庭にはレストランやオーベルジュ、高気密高断熱住宅をつくり、校舎では農業を学ぶスクールや地元の生産物を扱う食料品店などを行う。本来、農村がもつ暮らしの価値を、現代的なかたちに再編集する試みである。今回も、長谷川がランドスケープデザインの設計に参加している。
まち並みや施設をつくることは、まちづくりのほんの一部でしかない。オガールプロジェクトでは、建物やランドスケープが完成してからこそがスタートだと考えられている。何よりも、このプロジェクトではつくる「プロセス」自体に豊かな歩みがあった。行政・民間・市民が、それぞれの立場から、自分たちがどのような場所で、どのように暮らしたいかを考え、学びながら話し合ってきた。その結果生まれたのは、「当事者意識」と「何かをやろうとしている人を応援する精神」である、とみな口々に語る。市民ワークショップに参加した人たちは、オガールがはじまる時点で、「自分たちがここでほかの市民を迎える」という意識があったという。
人が風景をつくり、その風景によってまた人がつくられていく。資源や資金だけでなく、人と人との関係性も含め、ものごとが「おがる」循環が地域内で育まれている。

猪谷千香著『町の未来をこの手でつくる 紫波町オガールプロジェクト』(幻冬舎、2016年)
2025年7月16日